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終了しました。明日を担う音楽家たち--文化庁委託事業「平成28年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」--


終了しました。明日を担う音楽家たち--文化庁委託事業「平成28年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」-- | インフォメーション | 公益社団法人 日本オーケストラ連盟

終了しました。本当に沢山のご来場をありがとうございました。お陰様でとてもいい演奏会でした。皆様のお心は奏者にもしっかり届いています。
ありがとうございました。

一晩に協奏曲が5曲も!特別な演奏会です。
逸材たちの最高の音楽をご一緒に。

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世界的名手ラインホルト・フリードリッヒ氏のもとに 磨き上げた演奏を、是非。
トランペット:川田修一(平成27年度:カールスルーエ(ドイツ)) 
テレマン/トランペット協奏曲 ニ長調


台湾のプロ・オーケストラに活躍の場を広げた逸材。めったにないチューバ協奏曲をお聴き逃しなく。
チューバ:宮西 純(平成26年度:パリ(フランス))        
R.V.ウィリアムズ/チューバ協奏曲

 


高校在学中にブラームス国際コンクール第1位。ベルリン・フィル・カラヤン・アカデミー在籍。必聴のバルトークです。
ヴィオラ:大野若菜(平成26年度:ベルリン(ドイツ))                               バルトーク/ヴィオラ協奏曲


日本音楽コンクールほか上位入賞多数。音楽に包まれ、自然に身に纏う深い表現力をじっくり味わってください。
チェロ:上村文乃(平成27年度:バーゼル(スイス))
チャイコフスキー/ロココ風の主題による変奏曲


ロシアで暮らし、エリソ・ヴィルサラーゼ氏より教えを受けたプロコフィエフにご期待ください。
ピアノ:入江一雄(平成27年度:モスクワ(ロシア))
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調

制作・お問合せ:日本オーケストラ連盟
TEL03-5610-7275

曲目解説  オヤマダアツシ(音楽ライター)

テレマン:トランペット協奏曲 ニ長調 TWV51:D7
 トランペットの歴史は古く、ルーツとなった楽器は紀元前のものである。中世・ルネサンス時代にはツィンクをはじめとする多種の楽器が演奏されており、トランペット属の楽器は教会音楽においても重宝されていた。ヴィヴァルディやJ.S.バッハ、ヘンデルらと並び、バロック音楽後期に多くの作品を残したゲオルク・フィリップ・テレマン(1681~1767)のトランペット協奏曲(ニ長調)も、こうした土壌から生まれた作品だろう(ただし作曲時期は特定できていないようである)。
 音楽に関しては幅広い見識をもち、多数の楽器演奏もできたという彼は、それを生かした多彩な楽器編成の作品を書き残し、18世紀後半における「古典派音楽の時代」へとバトンを渡している。協奏曲だけでも150曲以上の作品を残しているが、トランペット協奏曲として伝えられているものは、本日お聴きいただくニ長調の曲がほぼ唯一のもののようだ。
 4つの楽章で構成されており、全曲は休みなく演奏される(つまり4部構成の全1楽章形式ともいえるだろう。テンポが「緩(Adagio)・急(Allegro)・緩(Grave)・急(Allegro)」と変化していく教会ソナタ形式(sonata da chièsa)によっており、バロック音楽の典型的なスタイルで書かれている。

ヴォーン・ウィリアムズ:バス・テューバ協奏曲 ヘ短調
 テューバという楽器が現在のような形になったのは19世紀になってからだが、それまで存在していた低音管楽器(セルパンなど)を吸収するような形で発展し、オーケストラにおけるレギュラー・ポジションの座を勝ちとった。しかしながら歴史が浅いためか著名な作曲家によるオリジナル作品が少なく(それでも20世紀になると個性的な作品が書かれている)、イングランドの作曲家であるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872~1958)のバス・テューバ協奏曲は、曲の親しみやすさもあわせて貴重な存在だといえるだろう。1954年に作曲され、同年の6月にロンドンで初演されたこの曲は、おそらく世界中のテューバ奏者およびこの楽器を学ぶ者のレパートリーに入っていると考えていい。
 この作品は、ロンドン交響楽団の創立50周年を祝うコンサートで演奏されるべく委嘱され、同オーケストラの首席奏者だったフィリップ・カテリネットが独奏・初演している(指揮はジョン・バルビローリ。同じ顔ぶれで英EMIに録音された)。全3楽章で演奏時間は15分に満たないほどの規模だが、テューバという楽器の多彩な音色を駆使し、旋律楽器としての魅力を引き出しているのがこの作曲家らしい(実験的かつ前衛的な作品が評価を得ていた20世紀前半~中盤において、ヴォーン・ウィリアムズはひたすらイングランドの民族主義的な作風を守り続け、広く親しまれる曲を書いた)。
 曲は3つの楽章で構成されている。第1楽章「前奏曲」(ヘ短調)はペンタトニック(五音音階)によるエキゾティックな雰囲気が特徴であり、冒頭はリズムのせいか日本的な味わいも感じられる。第2楽章「ロマンツァ」(ニ長調)は、なだらかな旋律が主役の緩徐楽章。第3楽章「フィナーレ」(ヘ短調)は独奏テューバが縦横無尽に駆け回る音楽であり、重量級の楽器というイメージを覆してくれる。なお第1および第3楽章の終盤には、独奏者によるカデンツァが置かれている。

バルトーク:ヴィオラ協奏曲 Sz120
 マーラーやドビュッシー、シェーンベルクやストラヴィンスキーなど、多くの新しい個性が音楽界に登場した19世紀後半から20世紀。オーストリア=ハンガリー帝国の一地方(現在はルーマニア東部)に生まれたベラ・バルトーク(1881~1945)は、多くの斬新な作品によって東ヨーロッパの音楽発展に寄与した。しかし第一次世界大戦後はファシズムの台頭が目ざましく、ハンガリーでの生活も徐々に息苦しくなっていく。バルトークはナチス・ドイツのユダヤ人排斥政策に拒否反応を示し(2人目の妻はユダヤ系だった)、母の死や第二次世界大戦の勃発などをきっかけとして1940年の秋にアメリカへと移住した。
 しかし内向的な性格で病気がちだったバルトークにとって、新天地は必ずしも楽園ではなかったようだ。1945年9月に天へと召されるまで、彼は病床にありながらも仲間たち(フリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキー、イェフディ・メニューインらの音楽家たち)に支援され、「管弦楽のための協奏曲」やピアノ協奏曲第3番など、後世に残る名作を生み出していく。卓越したヴィオラ奏者であるウィリアム・プリムローズの委嘱により1945年に構想されたものの、草稿の状態で残されたヴィオラ協奏曲も、そうした1曲。この作品は、バルトークの助手を務めていた作曲家・ヴィオラ奏者のティボール・シェルイが補筆完成させ、1949年12月にプリムローズの独奏ヴィオラ、バルトークの盟友だったアンタル・ドラティの指揮で初演されている。
 曲は3つの楽章で構成されており、休みなく演奏される。全体の半分以上を占める第1楽章は、冒頭の独奏ヴィオラによる主題で幕を開け、民族舞曲風の主題、内省的な主題などがすべて独奏ヴィオラにより提示される。静かなファゴットのブリッジを経て、第2楽章では深く瞑想的な音楽が展開され、さらに東ヨーロッパの民俗舞曲を思わせる第3楽章へと続く。

チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
 ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893)の名前を冠した国際的な音楽コンクールは、開催されるたびに世界中の音楽関係者・ファンから熱く注目される。そのチェロ部門で課題曲として演奏されるのが、協奏作品である「ロココ風の主題による変奏曲」だ。1876年12月から翌1877年1月にかけて作られたこの作品は、チャイコフスキーが敬愛していたモーツァルトの時代(18世紀に流行したロココ様式)をイメージする主題が軸となっており、それに続く8つの変奏で構成されている。オーケストラもトランペットのない小ぶりの(モーツァルトの作品を思わせる)2管編成であり、独奏チェロが常に主役でいられるよう気遣っているといえるだろう。
 この作品は、チャイコフスキーと共にモスクワ音楽院で教授職にあったドイツ人のチェリスト、ヴィルヘルム・フィッツェンハーゲンのために書かれ、1877年11月にモスクワで初演された。しかしながらフィッツェンハーゲンはチャイコフスキーの意図に反して変奏の順番を入れ替え、楽譜も出版してしまう。作曲者が意図した「原典版」の楽譜が出版されたのは1950年代になってからのことだった。作曲時にはバレエ音楽『白鳥の湖』や「スラヴ行進曲」、ピアノ曲集「四季」などが誕生し、“心許せる友人”となったナジェージダ・フォン・メック未亡人との文通が始まった頃でもある。チャイコフスキーにとっても、人生における大きな転換期だったのだ。
 曲はオーケストラによる優雅な序奏で幕を開け、独奏チェロが「ロココ風の主題」を提示。軽快な第1変奏、急速な第2変奏、寂しげな第3変奏、再び急速な第4変奏、可愛らしい舞曲風の第5変奏、オーケストラが主旋律を奏でて独奏チェロが激しくそれに絡む第6変奏、チャイコフスキーらしいロマンがあふれる第7変奏と続き、最後はギャロップ風のリズムに乗った第8変奏へ。短いコーダ(終結部)で曲を閉じる。

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番 変ニ長調 op.10
 セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)は、作曲家であると同時に優れたピアニストとしても注目され、サンクトペテルブルク音楽院在学中にピアノ・ソナタ第1番、ピアノ協奏曲第1番および第2番などを発表して、一大センセーションを巻き起こした。ベルリンではアルノルト・シェーンベルク、パリではイーゴリ・ストラヴィンスキーらが刺激的な新作を発表していた1912年、モスクワで初演されたプロコフィエフのピアノ協奏曲第1番は、ロシア音楽の新時代を告げるような「脱ロマン主義」の作風によって、保守的な作曲家や聴衆を驚かせたのである。初演のピアノはプロコフィエフ自身が演奏し、若い作曲家たちをサポートしていたコンスタンティン・サラジェフが指揮をした。
 全1楽章形式、演奏時間が15分ほどの小協奏曲ではあるが、親しみやすい主題を有しながらも、ピアノ・パートにはモダニズムの影響による歯切れのよい音を要求。プロコフィエフ自身も自伝において「構想と完成度において、成熟したといえる最初の作品」と書いているため、満足度の高い曲だったのだろう。
 曲は大きく3つの部分で構成されている。第1部(Allegro brioso)は力強い打鍵による序奏の主題で幕を開け(この序奏主題がフィナーレでも演奏されて曲を締める)、やはり独奏ピアノが運動性の高くトッカータ風の第1主題を提示。軽快な舞曲風のリズムで同じ音が繰り返される第2主題も続く。冒頭の序奏主題を経て始まる第2部(Andante assai)は、第1ヴァイオリンが静かに演奏する神秘的な主題を軸として展開。やがて音楽は激しさを増し、再び消え入るように終わる。音楽がリズミカルに動き出す第3部(Allegro scherzando)は第1部の展開型。音楽が高揚しきったところで序奏が再現され、フィナーレを迎える。